大好きな夏。僕はこの季節がとても好き。
でも、その一方で毎年この時期になるとある思いを抱くようになる。
僕の父は特攻隊員の生き残りだった。
8月某日出撃が決まっていた矢先、玉音放送を聞いたそうだ。
おかげで今、僕はこうして命をいただいた。
「散華」という言葉がある。
元来、花をまいて仏を供養することを指すこの言葉は、特攻で身命を捧げられた方達への畏敬の念を込めた表現としても使われる。
違う時代に生まれていれば、機上からの景色は楽園のような南方の海と空だったろう。
きっと愛する者たちとともに見たかったに違いない。
特攻という命さえ受けていなければ…
天国のような景色が一変、一面を覆う業火弾幕の中を縫い敵艦目指し突入するこの使命は、人類史上最悪の罪ではないかとさえ感じる。
尊い人の命をこのように使ってもいいのか。そんな思いに苛まれてならない。
過日、僕はとあるHPに辿り着き、そこである手記と手紙に遭遇する。
下記はその引用です。
「 一足お先に逝って待っています 」
特攻隊員には19歳~23歳ぐらいの未婚の若者が多かった。しかし、中には既婚者もいたし、年齢的にも若干高めの人もいた。その中で、本来は特攻隊員になる必要もないし、もっと言えば、なれない位置にいたにもかかわらず自ら志願し、自らの責任を果たしたような方もおられた。それが藤井一中尉(特攻戦死後少佐に特進)である。その裏には大変悲しい物語があったのである。
1.藤井中尉
藤井中尉は茨城県の農家に生まれた。7人兄弟の長男であった。陸軍に志願し、歩兵となったが、特別に優秀であったため転科して陸軍航空士官学校に入校した。卒業後、熊谷陸軍飛行学校に赴任し、中隊長として少年飛行兵に精神訓育を行っていた。
精神訓育は生徒達に軍人精神をたたき込むことも重要な狙いであった。藤井中尉は特攻作戦が実施される前から「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」と繰り返し言っていた。
その後、特攻作戦が開始され、自分の教え子たちが教えのとおり特攻出撃していく事となってしまった。あの純粋な教え子たちが次から次へと特攻出撃していく中、責任感が強く熱血漢であった藤井中尉は自分だけが安全な任務をしていることに堪えられなかったのだろうか。なんと藤井中尉は教え子たちとの約束を果たすべく自らも特攻に志願したのである。しかし、妻と幼子二人をかかえ、学校でも重要な職務を担当しており、パイロットでもなかった藤井中尉には、当然、志願が受け入れられるはずもなかった。しかし、藤井中尉は生徒達との約束を守るため、断られても、断られても2度も特攻に志願していた。2.悲劇
藤井中尉の妻、福子さんは高崎の商家に生まれ、お嬢さんとして育った。戦争中は野戦看護婦として活躍していた。そもそも藤井中尉との出会いは、中国で負傷した藤井中尉の世話をしたのが福子さんであったということである。このような馴れ初めである。福子さんは当然、藤井中尉の性格や考えが十分過ぎるほどわかっていたはずである。しかし、わかっているからといって特攻志願することに納得できるものではない。福子さんは夫を説得しようと必死だった。しかし、藤井中尉の決意は最後まで変わらなかった。
夫の決意を知った福子さんは、二人の幼子を連れて飛行学校の近くにある荒川に入水自殺した。
翌日の昭和19年12月15日朝、晴れ着を着せた次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし、長女一子ちゃん(3歳)の手と自分の手をひもで結んだ3人の痛ましい遺体が発見された。その遺書には「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」という意味のことが書かれていた。凍てつくような12月の荒川べり、変わり果てた愛する妻と子供たちの姿を見て、藤井中尉はその前にうずくまり、やさしく砂を払い、そして呻くように泣いていた。3.三度目の特攻志願
藤井中尉はこの事件の直後、3度目の特攻志願を行った。今度は自らの小指を切り、血書嘆願であった。今度ばかりは軍も諸般の事情から志願を受理した。藤井中尉を特攻隊員として異例の任命を行ったのである。
藤井中尉は熊谷飛行学校で生徒達に大変人気があった。教えは厳しいが熱血漢で情に厚いということで、生徒達は藤井中尉を信頼し、尊敬し、あこがれを持っていた。藤井中尉の送別会では、学校の幹部や生徒達で集めたお金で軍刀を贈った。藤井中尉は大変喜んでいた。しかし、事件のことは公になっておらず、誰も口にするものはいなかった。ただ、皆、噂ですでに知っており、別れを惜しんで流す涙がさらにつらいものであったことは間違いない。4.娘への手紙
話は相前後するが、藤井中尉は葬式が終わった後、長女の一子ちゃんあてに手紙を書いた。一枚目は桜の花の絵、二枚目は子犬と蝶と共に戯れている幼子の絵の便箋である。5.藤井中尉の出撃
藤井中尉は陸軍特別攻撃隊第四十五振武隊快心隊の隊長として、昭和二十年五月二十八日、隊員十名と共に沖縄に向けて出撃した。藤井中尉はもちろんパイロットではないので、小川彰少尉の操縦する機に通信員として搭乗した。教え子達、そして家族との約束をやっと果たすことが出来たのである。(引用、参考:「特攻の町知覧」、昭和史の証言(2)「特攻散華」)
今生きていられること、そして家族とともに過ごせるひと時を与えられていること。
奇跡の出会いに満ちた毎日を過ごしていること。
自由に生きるすべを選べるということ。
自由に学問することが保障されていること。
今、私たちがこうして穏やかに生きているほんの少し以前、多くの人たちが命を賭してこの国を守ろうとした事実をしっかりと受け止めていかなければならない。
その人たちの存在を忘れてはいけない。
夏を迎えるたびに、英霊の方々へ感謝の念を捧げることにしている。
夏は僕にとって大切な季節。
生まれた季節でもあり、命をしっかりと考える機会を与えていただいた。
この国に生まれてよかったと。